事務 25歳 女



はるさんに会うことを決断するまで半年以上要した。
依頼書は何十回も書き直した。
普段写真は撮らないので、自撮り写真はもちろん他撮り写真すらなかった。
人に写真を撮ってと頼むのも一苦労だった。
正解がないものを送信するのは恐怖以外の何物でもなかったけど、勇気を振り絞り送信ボタンを押した。

コミュ障だけど、まだはるさんは私がコミュ障ということを知らない!明るくハキハキ頑張ろ!と緊張しながらも意気込んでいた。
上手く話さなきゃ、変な人と思われないようにしなきゃ、普通にしなきゃ、そんな気持ちは空回りを続け、すぐにいつもの弱々しい自分が顔をのぞかせた。
テレビボリューム1の声量に、どもりがちで曖昧な返事……自分の言葉を操ることすら困難な現状に情けなくて涙が溢れた。

たどたどしく単語を投げ、涙ぐみながら鼻水を垂らす私に、はるさんはティッシュを渡しながら優しく問い、分かりやすいたとえを用いながら説明してくれた。

そんな優しいはるさんなのに、私は距離の詰め方をいつまでもためらった。
正しくは方法を知らなかった。

だから、口元を隠す手を下げて、こっちを見てという指示を照れ笑いしてはぐらかす私に、真っ直ぐの目をしたはるさんは少しだけ語気を強めた。

「難しい理論だけ聞いて頭で理解してるだけじゃ意味ないねん。ちゃんと行動で示さな意味ないやろ。今出来へんかったら1人で出来るわけないやろ」

手を握り、目を見つめる。
そんな簡単なことすら今の自分には出来なかった。
はがゆかった。
私は結局くだらないことに囚われて生きていくしかないのかと悲しくなった。
こんなチャンスをフイにする大バカ野郎なのだと。

いつまでもおどおど、もじもじしてる私を見てはるさんは
「今の自分にはちょっと難しいゴールやな」
怒るでもなく、優しく笑ってくれた。
ふっと安心して鼻水が垂れた。



「場所移動する?近くに部屋借りてるんよ。ずっとここでもいいし、移動してもいいし。どうする?」

この質問の答えは今後を揺るがすものになると直感が働いた。
もう間違えたくない。
何度もくれたきっかけを今度こそ無駄にしたくない。

「い、い、い、いきたいです(吃音)」

「よし、ほな行こ」

消え入るような声量だったのに聞き返されることもなかった。
それがなんだかとても嬉しかった。
今度こそもう選択を誤りたくない。
誤りなんてないけど、くだらない感情を捨てて自分のためになる選択を選ぶと決めた。



「泣くのヘタやな。今日はいっぱい泣いて帰ろか」

部屋に着き、軽く話しをしている中、泣くという行為を嫌悪し恥じ、止まらぬ鼻水を押さえすすり泣くような私にそう言った。
いっぱい泣く……?

はるさんが解放について、私の現状について分かりやすく説明する。
そしていつまでも隠してる欲求について問う。

「抱きしめてほしい?」

「…………………………………はい(鼻声)」

「じゃあおいで」

そう言ってはるさんに抱きしめられた途端、嗚咽が止まらないほど泣き出した自分にびっくりした。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚ははるさんで埋め尽くされ、今までの悲しみも寂しさも苦しさも辛さも孤独も全て包み込むような安心感に嗚咽は激しさを増した。
全ては受け入れられ、許され、後腐れもなくスーッと浄化されていくようだった。
これが解放なのかなとぼんやり思った。
思えばこの時からもう全てがどうでもよくなった。
そこからはあっという間だった。


「縛ったろか?」

相談依頼のつもりでいたので突然のことに動揺と、溢れてもはや止められない好奇心。

「ほんまにやめたくなったら、やめてくださいって言うんやで。そしたらすぐやめたるからな。な?」
はるさんは何度も確認してくれた。
それが嬉しくてまた新しい涙が出た。
私の涙はなかなか枯れない。

スルスルと縄を通される自分を客観視する。
縄ってそこまで苦しくないなぁなんてぼんやり思っていると、
「ほな行くで、締めるで」
と同時にギュッと締められた。

狂うには充分すぎる刺激だった。
途端におぞましい悲鳴が響いた。
まるでスプラッター映画のようだった。
キャー!ではなく、うめくような、もっと本能を揺さぶるような悲鳴。
聞いていると嫌悪感、恐怖感……そして興奮してしまう自分に感じる背徳感。
そんな悲鳴がまぎれもない自分から発されていることに気付いた時、初めて感じる気狂いするほどの興奮に全身に電流が駆け巡った。
呼吸をするたび縄の締め付けの強さが変わる。
助けて、やめて、ひどい、死んでしまう、加減してよ、でも心地良いからまだやめないで。
絶叫しながらそんな気持ちがぐるぐると頭に浮かぶ。

ビリビリと流れる微量な電流は、パニックを起こす直前と似ていた。
死ぬかもしれない。
強烈な恐怖感が襲う。

やめて!こわい!なにこれ!やだ!だめ!わからない!どうしよう!おかしくなる!
めちゃくちゃな言葉を叫ぶ。
ボソボソと小さな声でしか話せない自分にこんなに声量があるなんて知らなかった。

はるさんは可動関節が少なく錆びたブキリ人形に丁寧に油を差す。
そして今まで知らなかった可動関節をゆっくり曲げながら教えてくれる。
いつの間にか可動しない関節を見つける方が難しく、ブリキ人形はいつしか軟体動物のようになっていた。
理性という概念が抜け落ちた軟体動物は、もっとめちゃくちゃな方向に曲げてもらうこと、曲がることにしか頭にない。

軟体動物のように不規則な動きをする私をはるさんは強く抱き締めてくれた。
ぐちゃぐちゃになってしまっても、しっかり支えたるからなと言わんばかりの強さに耐えきれず腕の中でデタラメに暴れる。

その後は体のあらゆるところに通電され、感電死ギリギリのところで止めては通電をされ続けた。
そして見えない器具で私のレゴブロックのような脳みそをグチャグチャにかき混ぜた。

絞め殺すための縄か、通電か、はるさん自身の腕力の影響かは分からないが、今も体の痺れが抜けない。

私はもう以前の私には戻れない。


ひと段落ついたあと、全てがどうでもよくなった。
病的に人目を気にして、少しでもブスがマシに映るよう気にしていたのに、腫れぼったい目も、消えたラインも、不揃いなマスカラも全部どうでもよかった。
そんなことを気にしたところで誰も死なないのだから。

足取りもおぼつかないぬけがらになってしまって、このまま元に戻れないのでは?知らぬ間にとんでもない洗脳をされてしまった……と戦慄していると
「今はボーッとしてるけど大丈夫。寝たらちゃんと戻るで」
と言われたが、にわかに信じ難かった。
今もなお遠隔で通電が行われていたからだ。

カフェでは照れ笑いしながら口元に手を当て鼻水をダラダラ垂らしていた自分が心底くだらなく思えて、人がそこそこいる駅のホームで電車が来るまで抱き合った。
おいでと広げられた両手に以前の私なら、困ったように照れ笑いを浮かべはぐらかしただろう。
そんな自分はもう忘れてほしいと、そのまま飛び込んだ。
周囲の抱く感情など、今の私を傷付けることも出来ない。

はるさんと別れてから、一人で歩く人混みはこれまでとは違って見えた。
せかせかと歩く大勢の人たちが怖かった。
なるべく邪魔にならないように、不快に思われないように小さくなって申し訳なさそうに俯きながら歩いた。
メイクをしていても自信がないくせに、腫れぼったい目にグチャグチャの顔面を晒しながら、しっかりと上を向きながら真ん中を歩いた。
人を避けるのではなく、人に道を譲られた。
ああ、本当にくだらなかったなぁ私は。
いかに狭く堅苦しくつまらない世界で生きていたのかを思い知った。

四畳半一間でしか生きる術を知らなかった私を、はるさんは宇宙にまで連れて行ってくれた。
いきなりのことに動揺の連続だったが、はるさんはあれが地球、その緑のちっこい面積の中のゴミみたいな点がお前。とか、あれは土星っていうねん怖くないで。とか、そんな風に詳しく新しい概念を教え、導いてくれたから何も怖がることなく浮遊することが出来た。

私の世界は私が作る。
もちろんすぐには作れない。
はるさんにも長い道のりになることを覚悟するよう言われた。
それでも私はゴールに向かう。
向かいたいじゃなくて向かう。
私の世界は私が作る。


帰ってきてから改めて鏡を見ると、そこには普段の自分では考えられないくらいメイクが落ちていた。
それでも初めて鏡の中の自分をいいなと思えた。
気付いたら鏡に笑いかけていた。
照れ笑いでも、困るような笑みでもない。
はるさんが向けてくれたような優しい微笑みを自然と浮かべていた。
それに気付いた時嬉しくなってもっと笑った。

せっかくお気に入りの白檀シャンプーに、大好きな白檀の香水もしていったのに、タバコの匂いでかきけされてしまう……。
なんて思っていたが、白檀特有の甘みとはるさんの媚薬入りタバコの匂いが混ざって、髪の毛からわたあめの匂いがした。
「髪にタバコの匂いつくの苦手なんです」
「好きになりぃや」
早くも洗脳されている。


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乳母日記

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